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展示までに考えたこと
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2003/8/26 tue 子どもの頃に遊んだそれは、「いつ」「どこで」「だれが」…というフォーマットが決まっていて、書かれたそれを任意に取り出して並べると、「おかしな」文になるというものだった。しかしなぜそれを「おかしい」と思うのか。というより、なぜそれが「おかしい」とわかるのか。それは最初から、「おかしい」ものとして在ったのではないのだろうか。 9/1 mon 「いつ、だれが…」という文の断片を作って、それを並びかえるという展示をしようと思って試作しているのだが、どうにもうまくいかない。たぶん、子どもの頃にやったそれの印象があまりに強いのだろう。そもそもすでにある文を断片化するのはやめた方がいいのかもしれない。つまり、私はそれに意味を与えようとしているのだろう。 9/11 thu 色とりどりのことばが入った旅行かばんが、通りに落ちている。見ると、そこからぬきだされたことばが、あちらこちらにはりつけられている。かばんにはこれも色とりどりの字で書かれた荷札が、無数に結びつけられていて、このかばんがこれまで旅してきた場所をそれとなく示している。
9/20 sat 来月5日、Lifetown Art Tourの2回目が行われるサンモール一番町を歩いていると、宮沢賢治が命名したという「光原社」の前でふと足がとまる。「光原社」は盛岡に本店があって、とてもすてきなたたずまいなのだが(以前行ったときのようすはこちら)、仙台にも2店舗あって(こちら)、サンモールには「せんだーど」(仙台のこと)と呼ばれる店がある。ショーウィンドーにはとてもすてきな朱塗りの中国ものの箱があって、そのとなりにはまたどこのものかわからないが、皮をはった小さな太鼓とばちが置いてある。私はふと企画していた展示に息が吹き込まれるのを感じる。この朱塗りの箱に、宮沢賢治の言葉を書いた無数のカードを入れて、このままディスプレイしてもらったらどうだろう。隣の太鼓は、言葉が本来的に音であることを暗示している。それが箱から抜け出して来るようなイメージまで浮かぶ。向かえにある、つぶれてしまった回転寿司屋さんが、ちょうどベニヤ板でおおわれているので、ここに「並べ替え可能な文」や「好きな文字を書いてください」を展示してはどうだろう。箱から抜け出した言葉はやがて、意味と構造からも脱して、無意味な単なる音と化していくだろう。むろんそれは直線的なそれではなく、再びもとのさやへと戻るようなもの、少し遊んで戻って来る猫のようなものであるにちがいない。
9/21 sun Lifetown
Art Tourの打ち合わせがある。さっそく昨日浮かんだアイデアを話すが、店舗との交渉は商店街の理事会に話を通してからということで、「光原社」のディスプレイが変わってしまったり、あの箱が売れてしまったらどうしよう、などと一瞬思うが、そのときはそういうことなのだろう。第一、私の案をお店が承知するかどうかもわからないのだし。 9/24 wed Lifetown Art Tour。先日考えていた光原社の案は、先方がその時期に別の企画があるそうで、おりあいがつかないことが判明。とても残念である。何かあまりぱっとしないものになりそうないやな予感…。 9/27 sat サンモール商店街ということろを歩いていると、とあるカフェの前で「言葉の森」という音楽と詩の朗読のイベント・ポスターを発見。開催日は10/4(土)。実は私はその翌日10/5(日)に、Lifetown
Art Tourに「ことばの杜」と題したものを出展しようと思っていたので、とてもびっくりする。以前、三上さんがHPで紹介していた「アクエリアン革命」みたいなもの(だったらいいなぁ)と思う。まあ、言葉が「葉」ということばを内包しており、たとえば古今集に言うように、「言の葉」を語源としていることから単純に連想されるものとしてのそれなので、たいした偶然でもないのだが。 10/1 wed Lifetown Art Tourに出す「ことばの杜」は、「ことのはの杜」とやや表現をかえてみようかと思う。その方がこの展示を表わす上で、より近い表現に思えてくる。 10/4 sat はがきは「葉」書と書く。 (展示のあとに考えたこと) 10/11 sat たとえば、私が先週展示した「ことのはの杜」について、あんなにたくさん書いてあっても読めない、とか、もっと読みやすく展示した方がいい、たとえばテーマ別に分けるとか、とかいったアドバイスは、おそらく私の作品をもっといろいろなひとに理解してもらいたい、その手助けをしたいという気持ちからのもので、そういった心意気には手放しで感謝したいのだが、残念ながら、アート作品の評価や理解という点においては、それは非情なまでに無意味なことではある。 |