今日、思いついたこと

 

 

3/1 tue

 キリンアートプロジェクト2005こういった方々が選ばれたそうです(ちなみに私はこういうので応募しました)。

 今日から仙台市青葉区一番町マーブルロードおおまち保原屋ビル3FのHAIR MAKE C'sにてはじまる予定だった私の展示が延期になり、おそらく来週からの公開になると思います。


3/2 wed

 このひと月ほど、本当に何ひとつしていなかったような気がするのだけれど、昨日からこれではいけないと(なぜそう思うのだろう)、ずっとやめていた野外スケッチに出かける。
 以前、毎日朝からそうしたスケッチに出かけるのを日課にしていた時期があって、そのときの私の気持ちは、とにかく何かかたちにのこるものをつくらないと、自分は何ひとつしていないような罪悪感におそわれるので、何でもいいから勤め人のように朝からどこかへ出かけていって、何かしたような気分になりたいという、そういうどうにも息のつまるようなものだった(そしてそれは今もあまりかわらないかもしれない)。それは無意味さへの恐怖感や不安に対するために、何らかの(何でもいいから)システムや意味づけを必要としていたということで、それは今も同じである。そしてそれなのに、あるいはそれだから、私は事実としての「世界」には意味などないと思う。それに意味を与えているのはこの私で、では意味を与えているこの私は意味から自由なのかといえば、意味を与えない自由などないのではないかと強く思う。ということは、結局のところ意味によってふちどられていない「世界」などないということに帰着するわけで、まぁそういうことなのだろうと最近では思うようになった。中学校の理科で酸素原子などについてならうときに、でも酸素は分子で存在するのだよ、というのと同じように。
 以前、絵の個展を開いたりしているときは、これはいつどこで描いたのかとか、どういうことが言いたいのかとか、何かそういうたぐいのことを聞かれるのにとてもうんざりした。私自身、ひとの個展に行くときにはほとんど同じことを聞くので、そういうことを聞く気持ちがわからないとか、それは間違った行為だとか、そういう風には思わない。それどころかそうした質問はとても自然なことだと思う。けれども、絵について何かを説明をしなくてはならないのはとにかく苦痛だった。今の毛糸の作品などでは考えられない。ふりかえってみるに、それは私からすれば、意味に満ち満ちた「世界」をの上に、さらに意味をつぎ足すような気持ちの悪さ、あるいは明白すぎるほど明白な説明を一からやらされるめんどうくささだったのだろうと思う。たとえば「舌切り雀」を物語った後、それは本当にあった話しかとか、どういう意味(教訓)がふくまれているのかとかいったことを真顔で聞かれるような。
 それは私と私の絵との距離があまりに近すぎるがために起こったことなのだろうと思う。今、毛糸を使った作品をつくっても、まったくと言っていいほどに、そうした気分を味わうことはない。そこには私という署名の跡は限りなくうすい。私は自分を制作者というよりも、ほとんど鑑賞者の側にふくめてとらえている。あるいはそうした「対立」こそが、とても特異なことなのかもしれない。


3/4 fri

「今日、思いついたこと」は、今日よりHatena Dairy内のここに掲載していくことにしました。


 

 

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