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7/20 sun
中本誠司記念現代アート週間の公募展で、出品した2点のうち、「七月七日に」で和カフェC7さんから賞をいただく。この公募展では、希望者が賞をつくって出展者に与えることができるようになっており、会場であるせんだいメディアテーク近くの喫茶「和カフェC7」さんから、1週間個展をする権利をいただいた。
表彰式と懇親会の後、さっそく和カフェC7へ行き、10/14-19の間に展示をすることに決まった。9月上旬に予定している「ベジタリアン・プロジェクト(仮称)」(企画中)のもようを展示するようなものになると思う。何と言っても七夕のプロジェクトで賞をいただいたのだし。しかしこの喫茶店がものすごく個性的な店なので、そのあたりうまくやりたい。
7/22 tue
和カフェC7で展示しようと思っているベジタリアン・プロジェクトについて、それは食というキーワードのほかに、何か別の視点に立つ、という意味もあって、もしかしたらこちらの方が重要かもしれない。
たとえば、「1日ベジタリアン」と同様にして、「1日〜」になってもらい、その日付と「私は今日を〜として過ごした」という文章、何かそれらしい「もの」とをビニール袋に入れてもらう。1日画家とか、1日サラリーマンとか、1日オンナとか、1日老人とか。ベジタリアンの「アン」もしくは「イアン」は、ラテン語からきているのだが、
「…の土地の(人)」「…に所属する(人)」「…を奉じる(人)」「〔動〕…属の,…科の」を表わすそうだ。だからたとえばこれを「慰安プロジェクト」と名づけるとか。
7/23 wed
「ベジタリアン・プロジェクト」。1週間無料で個展ができる権利をいただいた和カフェC7で展示するべく、かたちを考えていたのだが、やっぱりこれはネット上でのプロジェクトにした方がいいかもしれない。
和カフェは戦前からある家屋をつかったカフェで、オーナーの持ち物である数々の昭和グッズでみちあふれた、いわば生ける博物館なのだが、あの強烈な個性を活かさない手はない。つまり、店にあるものを展示する、というのはどうだろう。
それはすごい数のなつかしものがあるのだ。アトムやまんがやゴム人形やおもちゃやレコードや、もう、いろいろ。それを「展示」する。たとえばあらかじめ私が文章を作っておくか、誰か複数の人に作っておいてもらい、それにぴったりくるような、あるいは付け合いになるようなアイテムを店の中からさがして、例のビニール袋に文章とともに展示する、というのはどうだろう。それはいつもそこにあったもので、別に「展示」などとことわられずとも見られるものだったわけだし、見ればそれとわかるものなのだけれども、そうして「展示」されることで新たな意味をもつとともに、そうした意味をもたせる「展示」そのものの紋切り型で小難しげなばかばかしさも「展示」できそうな気がする。どうだろう。
7/29 tue
「もの」とむすびついた記憶。しかもそれが製品や宣伝といった「もの」と結びついている、ということ。
7/30 wed
「ウルトラマンは3分以上たたかってくれた」
8/14 thu
10月に行うカフェC7での展示案「なごみ場@カフェC7」。
子どもの頃の記憶、「夏休みの絵日記」的な思い出を聞かせてもらい、それをもとに、私がカフェの中にあるもの(戦前からある民家で、所有者が捨てずにもっている品々がそのままカフェのインテリアになっている)を使って「制作」する。だからそれは「私が制作する」とか言っていながら、もうほとんどそれはお題目で、ひとびとが自分の記憶へと埋没していく契機であるに過ぎない。そういう展示。その場所がもつもの、ゲニウス・ロキの力からして私にはもうそれ以外の展示は思いつかない。
ほかに、「なごみねこ」とかいったキャラクターをつくってもいいかもしれない。
8/27 wed
「今日、学校で突然なつかしいにおいをかいだんです」と、その子どもが言う。PepeKyoheiとして、このサイト内に写真ページをもつ子どもである(先日の『Dの法則』の子とは別)。「たぶん、3歳か4歳の頃にかいだにおいで、でも何のにおいかは思い出せないんです」
彼は今日、その話を級友にし、当然のごとく理解されず、しかしここでまた性懲りもなく私にも話したわけである。
「で、そのにおいっていうのは、色で言えばどんな色なのかね」
「緑色です。きれいなエメラルド・グリーンです」
「かたちは? たとえば固いとかやわらかいとか」
「やわらかいです」
もしかしたら、いつかそれが何であるかを彼はつきとめることができるかもしれない。しかしおそらく、そうしたことは重要ではない。ここで私が思うのは、それ自体が何であるかわからずとも、それらしさについては共有できる、ということだ。
たとえば「なつかしさ」ということがらについてみてみよう。あるものについてなつかしさを感じるかどうかは、その人にすべてをよっている。それを「間違っている」と言うことはできない。そして人は、そのなつかしさがどういうものなのかをひとにきちんと伝えることは、おそらく不可能だと思うだろう。むろんそれは「なつかしさ」に限らず、自分の感覚をひとに正確に伝えることはできないという、みんながよく感じている独我論的な感覚のことだ。しかし、「歯が痛い」と言えばその人が何を言っているのかわかるように、「なつかしい」と言えば、それがどういう意味であるかは、みんな知っている。それが何であるのか説明できなければ、それを知っているということにはならない、などといった議論はばかげている。われわれは何かについて「きちんと」説明できずとも、それが何であるかを知っている。
そしてこの「なつかしさ」は、世代が同じであろうとなかろうと、齢を重ねていようとこの前生まれたばかりであろうと、みなが感じ、「なつかしさ」を感じさせるそれそのものが何であるか、ではなく、そこから「なつかしさ」を感じる、ということについては共有することができる。あるいはもっと言えば、「なつかしさ」という言葉が何を指し示しているかを共有することができる。
そして何かを共有するとは、おそらくそうしたことなのだろうと私は思う。「私のこの感覚をわかるだろうか」といったところに「共有」などという言葉は成り立つべくもない。私はそれを否定しているのではない。それは「共有」できない。「だから存在しない」とも思わない。ただ単に、それはそういうものなのだと思う。
9/3 wed
小中学生に「なつかしさ」についてたずねる。「虫とりをしたなつかしい場所が、地震で行けなくなった」「通ってた幼稚園の前を通るとなつかしい」「小学校のときの友だちに会ったとき(私立中に入った子ども)」。
その「なつかしさ」の肌ざわりを、じかに感じることはできなくとも、それが何を指しているかは「わかる」というこの感覚。たとえば、「交通事故多発」とかいう言い方に対して、「こんなひどいマナーで、これしか事故が起こってない方が不思議だ」という驚き(本当に驚きなのかはひとまず置くとして)のように、「なかなかひとにものごとが伝わらない」という言い方に対して、伝えようとすればある程度伝わる、伝わってしまう、ということに驚きを感じる、ということもあるのではないだろうか。
9/16 tue
いづみさんからフリーペーパーが届く。とても端正なブックレットで、青いインクがつきづきしい。
小学生の頃、おとうとに見せるために、オリジナルのまんがや、『ドン・キホーテ』をまんが化したものをつくっていたのを思い出す。しかしそれは思えば、「本」という体裁にするのが、大きな目的でもあったような気がする。ワープロが普及しはじめた頃、自分の書いたものが「活字」になることに、言い知れぬ昂揚感を感じた人は多かったと思う。それがインターネットとホームページの普及によって、表現したい内容の方は容易に発信できるようになった。しかし、精神が身体を離れては存在しないように、文字のいれものである「本」は、その体裁を離れては存在しない。そうした形式は限りなく解体されてはいながら、私のような者には、確かにそれが前提されている。つまり、私にとってネット上の情報は、一枚の紙切れの上に印字されているものであり、数ページからなるホームページは、表紙と奥付のある本である。
同じことは、郵便にも言える。電子メールでもファックスでも、それは何かが私と相手との間をとりもつもので、比喩的な意味でなく、そこには誰かの助力がある(ように思える)。
9/18 thu
いづみさんからいただいたフリーペイパーにヒントを得て、私もフリーペーパーを作ろうと思う(すぐマネする)。題して『なごみ場通信』。10月14日からはじまる個展「なごみ場@カフェC7」の連動企画として、「なごみねこ舎」(すでにキャラクターも決定している)という正体不明の団体(?)が発行するもので、発行日は2のつく日(それ以外は気まぐれ)。一回目にしてなぜか「第七号」。というのは、なごみ場(7538)にちなんだもで、つまり二回目に発行されるもの(があるとして)は「第五号」となる。「第七号」(つまり今つくっている最初の号)の「特集」は、「”なつかしさ”をさがして なごみねこ、和カフェC7をたずねる」。副題は「”なつかしさ”をテーマとした個展も開催」で、和カフェの紹介のほか、個展での展示への参加の呼びかけや、門脇氏のインタビューも掲載される(かもしれない)。ほかに”なごみ系”の進学塾として、「杜の教室」の生徒さんへの電撃取材も考えている。「第八号」まで出ればいいなぁ。
9/24 wed
「なごみ場通信」なるフリーペーパーができる(こちら)。さっそく置いてもらいに行く。
和カフェC7では、やっとオーナーさんが私と私のやっていることとが一致してくださったようで(七夕ではそれとは知らず、しっかり私の展示をゲットしていたという)、「なごみ場通信」を読むなり、「給食をやろう」と魅力的な提案をしてくださる。私はそのとき、昔の給食の献立表があったらな、と思ったのだが、後でもう一度考えてみるに、それは何も「昔の」である必要はない。今現在、今月のどこかの小学校の献立表であっても、それを目にして「なつかしさ」を感じることはできる(むろんそれを毎日目にしているひとびとにはむずかしいが)。
展示に先行して置いてあるノート(「あなたの感じるなつかしさを書いてください」)には、店長さんとそのご友人によって、いくつか「なつかしさ」が採取されていた。4つほど目につく。
「新聞に「消費税スタート」と書いてあったので、「ゴール」があるんだと思っていた」
「学校を休む時、必ず給食の献立をチェックしたこと」
「通学路にある選挙ポスターの写真の人たちは、必ず鼻の穴にがびょうがささっていたこと」
「校庭の砂の中の透明な砂をダイヤモンドだと思って集めていたこと」
これらはすぐにでも「作品化」できるだろう。たとえばひとつ目は当時の新聞一面のコピーとともに(私は消費税が導入されたばかりの4/1未明、コンビニで買い物をして、知ってはいたけれどすごくショックを受けたのをおぼえている)。ふたつ目は塾の子どもにでも持って来てもらって、給食の献立表とともに。みっつ目はかなり難易度が高いが、誰か選挙に出る人が、その鼻の穴に画鋲をさすことを承諾してくれた上でポスターをくれたりしたら。最後のは校庭の砂を入れたビニールとともに。
9/25 thu
今、そこで子どものやっていることに、「なつかしさ」を見いだすことは可能である。子どもでなくてもいい、たとえば私はかなり年配の人が、「透明水彩は白と黒を使ってはいかんのですな」という言うことにすら「なつかしさ」を感じることができた。
ではそれはいったい何をさしてそう呼ばれることばなのか。歴史性みたいなものとの関わりが深いように見えて、実はそれは本質的ではない。ある意味、個人的なもののようでいて、共同体的なものへの転落の可能性を秘めており、情緒的なものへの転落の可能性を秘めている。「負の遺産」というのがあるが、そうした否定的な記憶と対をなしていて、ということは、それと同根のものである。否定的な記憶が怨恨へ転落する可能性を秘めているのと同じように。
9/29 mon
誰かのしぐさや何かを見て、「なつかしい」と言う時、私は「この」私以外にもそれをし、それを感じているのだ、ということに対しての感動を、そのことばに託しているのではないのか。同じ私の過去のしぐさや何かについても同じことである。過去の私はすでに「この」私ではない。その私と「この」私とが同じようにつながっている、ということへの素直な感動を、「なつかしい」という言葉に託しているのではないのか。
なごみねこ舎の運営する、「なごんでマス」なるホームページを立ち上げようと思っている。すこしできる。こちら。
10/1 wed
私が「なつかしさ」について何かを述べたり表現したいと思うとき、それは「なつかしいもの」についてであって、なつかしい「もの」についてのそれではない。だから、なつかしい「もの」のオリジナルさ加減みたいなものにはいっさい興味がない。私が興味があるのは、「なつかしいもの」のもつオリジナリティであり、それとの関わり、それがどうしてそう感じられるのか、どうしてそれが「この」私だけではなく、開かれてあるのか(というより、開かれてあるように「この」私には感じられるのか)、ということにあって、閉じられたそれには興味はないし、逆にうとましくさえある。実際、私はこれまで、ものをもつことよりは捨てること、時間的に過去のことをなつかしむよりはまだ見ぬものを期待することの方に価値を見出してきたし、おそらくそれはこれからもそうだろう。そうした意味でのみ、「なつかしさ」は私にとって意味をもつ。だからさる現代アート作家が、自分が子どもの頃に道端で拾ったものを集めた展示をする際、それを新たに「再構成」する――「オリジナル」はお母さんに捨てられてしまっているので――という姿勢、それでも失われずにつながり、共有されていくものをさがす態度に共感をおぼえるし、創造的で開かれた姿勢、知性のあるべき姿を見るのである。
塾の中学1年生にたのんで、小学校の頃に使っていたランドセルやリコーダー、ピアニカ、給食の献立表やプリント類をもってきてもらうことに話がまとまる。
しかし展示は上に書いたように、そうした「もの」を提示すればいいとは思わない。それでは物語を物語と知らずに読んでいるだけでなく、書いてすらいるようなものだ。物語を物語として書いたり読んだりするだけでなく、それが物語であるからこそ意味のあること、おもしろみ、豊かさのようなものを、ある程度は容易に見えるようにするのが、作品化するという意味だろう。
10/2 thu
入手するもの…
・消費税導入の日の新聞
・ブッシュ大統領の顔写真
・キラキラが入った砂
・給食の献立表
・ランドセル、ピアニカ、ソプラノ・リコーダー、体育着
今日入手した「なつかしさ」
「学校の裏庭には、生き物のお墓がたくさんあったこと」
10/3 fri
たとえば、ピカソの絵を見てすばらしいとか、ひどいと思った記憶を「なつかしい」と言うだろうか。
10/6 mon
「街を結ぶもの」 SATOKOプロジェクトの概要が決定したのでアップ。参加できるプロジェクトもありますので、どうぞご参加ください。
うちのねこ(ゴルの方)は、よく何かをしゃべっているのだが(鳴いているのではなく)、何を言っているのかうまく聞き取れない。行動も突発的で、私よりも移り気である。しかし妻はこの私が言っていることを聞き取れなかったり、私の行動が突発的で移り気だと思っている。
いづみさんから、幼少の頃に描いたスケッチブックが届く。これで和カフェでの展示のおおまかなところが決まった。あとは塾の中学生諸君が、小学校の頃に使っていたランドセルやリコーダーを、忘れずに持って来てくれるのを待つばかりである。
「記憶の年輪」とでも題した木を作ろうと思い、角材を2本買ったのだが、すこし雰囲気が合わない気もしてきたので、これはちがうときに使おう。
10/7 tue
和カフェでの展示で、訪れた人が書き込める「記憶の板」というのを用意しようと思い、1.8m×14cmの2×4材を買って、石膏塗りをする。ためしにいろいろな色の線を入れてみている。しかし角材もボツだったが、この板も何となくイメージがちがう。やっぱりカードに書いてもらって壁にはっていった方が自然だし、シャープかもしれない。
願うことは、意識を未来へと向けることだが、なつかしさは意識を過去へと向けることだ。しかしむろんここで「未来」とか「過去」と言われているのは、そのようなものとしてあるそれではなくって、つまりは「過去なるもの」は「未来なるもの」から生まれるし、その逆もそうなのだ。そしてその支点=視点は、「この」現在にあるように見える。
ランドセルやら体育着やらを借りることになっている子どもたちに、それらを展示する会場であるカフェでごちそうしてやろうと言っているのだが、ふとそこを即席の塾会場にしてしまうのはどうだろう、と思いつく。塾を展示するわけだ。たぶん無理だろうけれど。
10/13 mon
今日は和カフェでの個展「なごみ場@カフェC7」の搬入。余裕をもって準備できたので、それなりのものができたように思う。しかしこれをどこまで理解してもらえるか。
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