門脇篤個展
ふたつの場所を毛糸で結ぶ
〜絵画・立体・パフォーマンス〜

中本誠司現代美術館展 2004/3/18thu-24wed

クレイ・アルファ展 2004/3/16tue-23tue

 

”SATOKO”


毛糸をたどって美術館を3階まで行くと、そこにはひとつのかばんが置いてある。
「かばんを開けてください」という指示にしたがうと、中にはCDプレーヤーが。ヘッドフォンから流れる曲"SATOKO"は、オウム真理教による坂本弁護士一家殺害事件の被害者、坂本都子(さとこ)さんがのこした詩に、弁護士中本裕二氏が「つづき」を書き、シンガーソングライター国安修二氏が曲をつけたもの。

赤い毛糸に だいだい色の毛糸を結びたい
だいだい色の毛糸に レモン色の毛糸を
レモン色の毛糸に 空色の毛糸を結びたい
この街に生きる 一人ひとりの心を結びたいんだ

※"SATOKO"について"詳しくはこちら (こちらでは試聴もできます) 。
他の場所で展示を行った際、展示の「背景」について私が書いた文章はたとえばこちら

 

 

フランス人のアーティストに、ソフィ・カルという人がいる。写真とテキストによる発表を行うために、「写真家」や「文章家」に「分類」されたりするそうなのだが、彼女のやっていることは、誰かの指示に従ったり、誰かを追跡することで自分の行動を誰かにゆだねたり、そうした「他者依存」的な態度から生まれる行為の意味をとらえなおすことにある、と思う。
われわれは「主体的」であることを賞賛され、しかし一方でそれとの折り合いをつけていくことを望まれる。たぶんそこには、ひとつには「わかりやすさ」への信仰みたいなものがあるのではないかと思う。それはいずれにせよ、行動が容易に類推できること、「常識的」であることへの安住をともなっている。だから「主体的」である一方「和」を重んじるべきだなどと言われても、それは矛盾でも何でもない。「われわれ」が自己主張するところで自己を主張し、和を重んじるべきところで重んじればよいのだから。

 

カルの他者依存的行為は、そうした「われわれ」という主体へのパロディであり、痛烈というよりはやわらかな、批判というよりは物語とでも言うべきものだと思う。その半分は意図されたぎこちなさ。それでも「私」には「主体」があり、私にはこう見えてしまうということ。「見る」のではなく、「見える」ということの提示。それはそうした行為(アート)の「意味」を求めるむきへの、やはりなごやかな回答それ自体でもあるのだろう。

 

私は素直にこの美しい詩と曲にしたがって、毛糸が結ばれている様子をながめて見たかった。それを街に結び、野山や海に広げてみたいと強く思った。そしてそう思い始めると、もういてもたってもいられなくなった。
「オリジナリティ」とか「芸術性」とかいうこととは、「無縁」であるというよりは、そうしたものとは範疇がちがう。だから私はこれが「アート」であるかどうかも、カルと同様、それを見るあなたによっていると思う。そして私がこうしたことをすることに、どんな「意味」があるのか、ということに関しても(そしてその「あなた」の中にはこの私も、特殊なかたちで含まれているのだと思う)。

 

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展示までに考えたこと

門脇篤 in 中本誠司現代美術館

つなぐこと 結ぶこと SATOKOプロジェクト

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