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「全体性=ホロス」と「第三の道」
先日、40年の長きにわたって、精神病と呼ばれる人たちとともに「造形教室」というかたちで芸術活動をつづけている安彦講平さんという方のお話を聞く機会がありました。そしてまた、安彦さんの「造形教室」のひとつがある茨城県の精神病院の院長的場さんのお話や、「造形教室」を5年以上かけて追ったドキュメンタリー『心の杖として、鏡として』(監督:萩原磨、共同監督・撮影:高橋愼二、2005年)もいっしょに見たのですが、そうした中で印象に残ったのは、「癒しhealing」とはギリシア語の「ホロスholos=全体性」に由来する言葉、概念であり、われわれが失っている全体性を取り戻すことが、すなわち「癒し」なのだ、というお話でした。
という、それだけを聞けば、何やら宗教めいた、けっこううさんくさげなお話に、あるいは予定調和風のどこか都合のいい話のように聞こえるかもしれません。しかしそれは私からのまた聞きという、それこそ欠落した状況、つまり「全体性」を失っているからで、その真摯な取り組みを見、実際にご本人を前にその口から直に発せられる言葉を耳にすると、この人たちは本当にそれをやっているのだという、その当たり前のことが、はっきりと伝わってきました。
禅では「即心是仏」といい、「不立文字」といいます。これらについて、いろいろな解釈なり、ありがたいお話なりがあるかと思いますが、それらすべておしなべて、その文字や言いだけをとるならば、反駁するに易く、いかようにも誤解されうるもののように思われます。しかし、やはりそれがもし「全体性」をもってながめられるならば、それはおそらく受け取る側の器量の問題に転化されるわけで、いかようにも深く、またいくらでも豊かになりうるものでしょう。「無我」というのも、おそらくはそうした、ある具体的な文脈の上で、つまり「全体性」の中で、受け取られ、悟られるべきもので、形式的で抽象的な概念や、はたまた「滅私」とか「没我」などとは全然ちがったものに違いありません。
「近代主義」の負の遺産のように言われる「我思うゆえに我在り」といった言明にせよ、それは素朴な真理をついた言葉であり、私はけっこうそういうことを本気で言う人が嫌いではなかったりもするのですが、やはりそこに内在するべきは独我論的な響きではなく、私がこの私をそれと知ることができるのは、私でない何かが存在するからであり、そうした「全体性」なり「世界」なりを、別に「みんなでいるから楽しいな」とか「譲り合いの精神が大切だ」みたいな道徳的な文脈においてでなく、視野に入れながらものを見ていこうとすれば、必ずや形式的で抽象的な、いわば欠落した状態でものを見ることの乏しさに気づくことができるのではないかと思うようになりました。
単純な二律背反や二項対立に依拠した「勝ち組み/負け組み」「第一世界/第三世界」「宗教対立」といった、バリエーションこそ豊かでありながら、内容的にはあまりに乏しい図式が、いったいいつまでたっても問題の本質や解決にいたる道すじを提示することができないのは、そうした図式のインパクトや劇場性にばかり動かされ、図式や劇場といった欠落したわかりやすさ、いかにある主張のために何を欠落させるかという能力に価値が置かれているからにほかならならないように思います。
私の利益があなたの損失であることを意味するような世界観は、別に「あなたがうれしければ私もうれしい」といった道徳主義的な、あるいは博愛主義的な立場によることなく、端的に誤っているし、またそうした立場によることなく解決するための視点、「第三の立ち位置」に立つことができるのではないかと思います。
「第三の道」をテーマに掲げるこのながのアート万博「3rd Party展」への出展作品として、私は以上のような視点、「第三の視点」をテーマにした作品を提示したいと考えています。具体的には、それは3つの作品群からなるもので、それは私のたどった軌跡であるとともに、今現在も、そしてこれからも私が考えつづけるだろう問題です。
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