虹のたもと、
通り道
The Rainbow Yarn
on the Way

New Art Competition
of Miyagi 2005
ニュー・アート・
コンペティション of Miyagi

2005/7/8-19
せんだいメディアテーク
6Fギャラリー


これまで主に屋外で、その場によりそうようなかたちで大規模にやってきたものを、今回、8メートル×8メートル×4メートルという、区切られ、ほとんど隔絶された空間の中に展示してみたわけだが、とりあえず思ったのは、これはまるで「模型」みたいだ、ということだろうか。つまり、屋外でめいっぱい展示するものの。
しかし「模型」を、私は否定的な表現として用いているわけではない。逆にそれがおもしろいと思う。どうこういってもその場所性というべきものが、この毛糸のインスタレーションの一連の作品には決定的な役割を果たしているわけで、たとえば、この場所での展示を「模型」と感じるとき、私は同時にその外部にあるホンモノサイズの世界や、この場、つまりその世界の内部でこれを見る観客も、模型サイズの人間だったり、というような奇妙な感覚を味わう。別に「サイズ」と言うからといって、それが物理的に小さかったりする必要はなく、つまりは「模型」に対して私たちが感じるあの感じが感じとれればいいのである。
屋外のような気象条件(光や風、天気や湿度)の変化がいっさい、あるいはほとんどない中では、外では風にゆれる軽くやわらかな毛糸が、まるで凍りついた一瞬の時間の中にいるように見える。 重力のもつ緊張感、その力がつくる弧の美しさ。それは単なるカーブではなく、方向性――上方、下方、あるいはバラバラとありとあらゆるベクトル――をもった力である。しかしかと思えば見る場所によってはその弧の重なり、下円の弧のもつ一体としての重量感が、降ってくるようなリズムを刻んでいる。静止した無音状態の中に、目で聴く動き。輝く色。おぼろな影。空間、重なり、方向性、推進力、奇跡、航跡。

「これらがはりめぐらされる前、そして取り外された後のこの場所、時間を想像してみよ。」

時間がとまってしまった世界があったとしたら、それはこんな風に美しく、ある意味退屈であるにちがいない。 毛糸たちは、あたかももの言わぬものたちであるかのように、どこかへと向かうものたちのようにそこにあって、私はそれをただ外からながめている。顔が、こちらを向いていない。そしてそれは、私の顔だ。

土曜日の昼、1時間ほどこの場にたたずんでみたが、その間にやっと十人ほどの人が展示の前を通り過ぎた。
中には「これが作品なの?」と素直な感想を口にしている人。「染めからやってるとか?」ともうひとりが言う。
たぶん、そこにはたらいているのは、アート作品には、ある程度の認知された技術やそれに似たものがあるはずだという「確信」である。それが「アート」や「作品」と呼ばれ、今も、そして将来的にもその名で呼ばれていくものにちがいない。何らかのそうした外在的な規則や根拠、つまりは「生活」がなければ、それを名指すことには意味がないだろう。では、これまでそう呼ばれてこなかったことがらや、あり方をその名でとらえ直すという行為を「アート」と呼ぼうとするなら、そこにはどんな規則や根拠があるのだろう。私にしかわからない命名法など、無意味なことであるにちがいない。私がそうするとき、そこにはどんなかたちの論理がはたらいているのだろう。もしそれを明らかにすることができるなら、私は私の「アート」を、もっとはっきりひとに示すことができるのではないか。

 

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