「役に立つ」勉強

 「こんな勉強しても何にも役に立たない」 といった声をよく耳にする。「学校の勉強は将来何の役に立つんですか」と。
  役に立つという言葉を「実用的」という意味で使うなら、学校で学ぶことの多くは、あまり役に立たないと言える。というのも、もともと勉強は直接役に立たないから勉強なのだという面を持っており、だから「何の役に立つのか」という質問にはあまり意味がない。しかしそうした質問をしてしまうことの背後には、どんなものがひかえているのかを考えることは一考に値する。
 まず、役に立つ実用的なものの例を身近なところから考えてみると、ご飯の作り方や掃除・洗濯の仕方、お金の稼ぎ方や人間はじめ動物の育て方などが思いつく。そしてこれらはすべてギリシア人たちが生活の必然と考え、女性や奴隷の仕事として彼らにそれを押し付けることでそこからの逃避をめざしていたところのものであることに思い当たる。役に立たない、実用的でないことこそ彼らにとっては価値のあることだったのだ。「学校」の語源であるギリシア語の「スコレー」が、「余暇」を意味するのは、こうした点で象徴的である。また、女性や奴隷の犠牲の上に、古代人たちが実用から解放され、哲学を花開かせたことは周知の通りである。 何かの役に立つとか、実用的だといかいうことぬきに、ただ考えることの喜びを追究していくこと、それこそが、学生という生活の必要性から解放され、何ひとつ経済的なことを考えずにいられる時期の特権なのだ。
 しかしもちろんそんな風に考えるのは、今日では容易
なことではない。役に立つことと役に立たないことの価値がこれほどきれいに転倒してしまったように、学問が労働の上に位置した時代も終わりを告げ、学問は労働に奉仕するという条件でやっとその体裁を保っているかのようだ。大学ではその研究の実用性が問われ、企業が求める人材を用意できるのかと声高に問い詰められる。学生の側ではさらに進んで学問に実用的意味すら問うことなく、どの学校を出たかという社会へ出てからの箔付け的価値しか見出さない。学問が労働の延長線上に位置し、極端に言うなら、小学校に入ったときから(あるいは幼稚園に入ったときから)労働者となるべくさまざまな「実用的な」価値をつけ加えていくよう強いられているわけである。そしてこうした強い社会的圧力を受けて、こどもたちの口からもれるのが、冒頭にあげた言葉なのである。だから勉強=労働のこの制度についてよく飲み込み、得意でさえあるようなこどもたちの口からこうした言葉は発せられない。労働者として自分のキャリアに箔をつけることは、当然奨励されるべきことがらだからである。
 逆に、こうしたほとんどそれ以外の価値観を認めないような激しい画一主義に呆然とし、何かだまされているのではないかと不審に思いつつも、それが一体何なのかを明確には指摘できないでいる多くのこどもたちは、この実用=労働至上主義の圧力の中で、本来的に非実用的な勉強をさせられることに対し、ほとんど本能的に、大きな皮肉をこめてたずねるのだと思う。 「これが何の役に立つの」と。

  Atsushi Kadowaki 2001.6.6  

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