なつやすみ
門脇 篤
すでにお気づきの人もいらっしゃるかもしれませんが、このスケッチブックは、ある方(Iさん)が幼少の頃に描かれたものを、私が個展『なごみ場@Cafe
C7』(和カフェC7,2003/10-14-19)に展示するため、模写・制作したものです。
Iさんは幼少の頃、とにかく絵を描いたり、何かを切り取ったりするのが好きで、紙やはさみさえあれば楽しく過ごしていられたと言います。この夏、ダンボールの中から見つかったという、5歳から6歳くらいにかけての数冊のスケッチブックには、それらのあとが明瞭に見てとれました。
「なつかしさ」をテーマとしたこの個展の展示を考えていくにあたって、私はそれが芸術、そしてもっと広くあらゆることに通底する問題点を包含していることに、気づかないわけにはいきませんでした。
私たちは何かを見、体験したとき、それに先行するある映像や体験を想起し、「なつかしさ」を感じます。しかしそれは必ずしもそれそのものである必要性はなく、たとえば今現在使われている給食の献立表を見ても、「なつかしさ」を感じることは可能です。また、それは経験の多少にかかわりなく感じる感覚であり、私は展示の準備
を進める中、大人に劣らず小学生も「なつかしい」という語を多用するのを目撃しました。
「なつかしさ」それ自体にふれることは、私たちにはできません。それはあたかも「もの」それ自体を認識することができないように。一方、私たちはそれを喚起するものを「再構成」することができます。あたかも芸術作品が「美」を喚起させようとするように。
このようなことから、私はなつかしさというものが、人ともの、人と人との間に、ある特有のあり方をして在るものだと気づかされました(もちろん、これは何も「なつかしさ」に限ったことではなく、あらゆることに言えるわけですが)。そして、そうである以上、それを認識し、再構成しようとするのが、「なつかしさ」をテーマにした展示の向かうべき方向性だろうと思ったわけです。
絵を描くことや、写真を撮ることは、ものをよく見ようとすることだと言えます。そうした意味で、私はIさんの幼少の頃の絵をなぞることで、それをよく見、それがどのような視点から描かれたのか、どのような技法で描かれたのかを深く知ることができました。
おそらくは本人すらも忘れてしまったかもしれないそうしたものを、こうしてたどることのできる不思議。それを「なつかしさ」として共有できてしまうことのおもしろさ。そしてそこにこそ、認識すること、存在することの不思議があると思います。
2003/10/13